1. クジラックス氏が警察から自宅訪問を受けた件
漫画作品に描かれた強姦の手口を模倣した強制わいせつ犯が発生したとのことで、埼玉県警が、作者のクジラックス氏の自宅を訪問して「配慮」を「要請」したそうだ。
ネット上では大きな話題となっており、「表現の自由の侵害だ」など、埼玉県警を批判する声が強い。
しかし、法律論(憲法論)としては、この件を「表現の自由の侵害」というのは困難だろう。
報道やクジラックス氏自身のツイート等から判断すると、警察は、何ら強制的なことはしていないと思われるからだ。単なる「お願い」にとどまるかぎり、人権侵害の問題は生じない。*1
しかし、警察といえば権力機構の最たるものだ。
形式的には強制を伴わない「お願い」にとどまるとしても、警察官がいきなり自宅に訪問してきて「お願い」されて平気な人は、我々法律屋くらいのものだろう。実質的にはかなり強い圧力となりうる。
したがって、このような「お願い」にも表現行為に対する萎縮効果はあるといわざるを得ない。そもそも、警察がまさにその萎縮効果を狙ってこういう行為をしていることも明らかだろう。
憲法上の人権である表現の自由の侵害とまではいえないとしても、我々市民はこのような警察権力の「おせっかい」を、大いに批判してよいし、すべきだと思う。それが歯止めになるかもしれない。
2. 表現の自由の主戦場は昔も今もエロ
「表現の自由」というと崇高で大事なものという感じがするが、エロ表現というと低俗で下等な感じがするせいか、あまり積極的に擁護する気になれない人が多いようだ。
しかし、表現の自由の主戦場は、今も昔もエロ表現である。
チャタレー事件、悪徳の栄え事件、四畳半襖の下張事件、メイプルソープ事件。
司法試験受験生が勉強するような、表現の自由関連の重要最高裁判例の多くが性的表現に関するものだ。
漫画作品のわいせつ性が問題になった松文館事件というのもあった。
最近では、アーティストのろくでなし子氏の作品がわいせつ性を問われたが一部無罪を獲得した裁判も話題を呼んだ。
なぜこのようにエロ表現が表現の自由の主戦場になってきたのか。
これは簡単な話で、敵(国家権力)がよくそこを攻撃してくるからだ。
戦後の日本においては、政治的言論などがその表現内容を理由に禁圧されるということは、そう多くはなくなった。特に刑罰をもって禁圧されることは少なくなった。
例外として名誉毀損罪があるが、名誉毀損行為は個人の利益を侵害することがはっきりしているから、他者の人権との調整という観点から一定の規制を受けるのはやむを得ないということに、あまり異論は出ないだろう。
他には破防法なんていうのもあるが、ここ何十年も適用されていない。
一方、エロ表現は、戦後もずっと刑罰を伴う規制をされ続けてきたし、実際に取り締まられてきたし、今も取り締まられている。
エロ表現規制の代表は、刑法175条、わいせつ物頒布等の罪だ。
実はこの罪は、何を守ろうとしているのかよくわからない罪だ。
国家が、刑罰という強い制裁まで使って特定の行為を禁圧しようとするなら、禁圧される行為を上回る何らかの利益を守ることを必ず目的としているはずだ。そうでないなら刑罰は正当化されない。この守られるべき利益を保護法益という。
刑法175条の保護法益について、最高裁は「性道徳、性秩序」と解しているようだ(チャタレー事件判決参照)。
そもそも、性道徳、性秩序などというものを、国家が刑罰をもって強制することが許されるのか疑問が残る。だからこの規定には、根強く違憲説がある。
しかし最高裁判例は合憲説で確定してしまっている。今さら違憲説を唱えても最高裁が相手にしてくれる見込みはほぼない。
そこで、刑法の解釈問題として「わいせつ」にあたるか否かの線引きを争ってきたのが、上に挙げたような数多のわいせつ裁判だ。*2
昭和の有名わいせつ裁判であるチャタレー事件、悪徳の栄え事件、四畳半襖の下張事件は、いずれも文字による文学作品のわいせつ性が問題になったものだ。結論的には3件とも有罪になっている。
しかし今では、文学作品の作者や販売者が刑法175条で検挙・起訴されることなど考えられないだろう。「チャタレイ夫人の恋人」も「悪徳の栄え」も「四畳半襖の下張」も、今では普通に売っている。
写真や映像表現についての取締の基準も変化してきた。
1981年生まれの私は、「ヘアヌード解禁」という言葉をギリギリ記憶している。昔は、陰毛が写っていればわいせつ物にあたるという基準で取締が行われていた。しかし表現者側が声を上げたり、立件覚悟で陰毛の写った作品の発表を強行したりということが続くうち、なし崩し的に取り締まられなくなり、90年代頃からは完全に「解禁」状態となって現在に至るようだ。
このように、捕まって起訴されて前科がついても闘ってきた先人たちが、わいせつのラインを自由寄りに押し込んでくれたおかげで、比較的自由な今の状況があるわけである。
「チャタレイ夫人」や「悪徳の栄え」の発行が禁じられるような日本国というのは、空想上のディストピアにしか思えないかもしれないが、一歩間違えば本当にそうなっていた。
2017年を生きる我々も、エロ表現を軽んずるあまりディストピアを呼び寄せる愚を犯さないよう心がけたいものだ。
弁護士 三浦 義隆
おおたかの森法律事務所