アルジェリアで痛ましいテロ事件が起こってしまった。

その犠牲者の遺族である本白水智也氏が、「匿名を条件に朝日新聞の取材に応じたのに、朝日がその約束を破って実名報道した」旨の告発をし、各方面で議論を巻き起こしている。

この件に関し、朝日のやり方がまずかったことは明白だろう。

事実関係が本白水氏の言っているとおりなら、約束を、それも親族を亡くしたばかりで悲嘆にくれている人との、切実な約束を破ったのだから。

実名報道するならするで、結果的に空約束になるような約束ならば、そもそもすべきでなかった。

しかし、今回の件をきっかけに、被害者の実名報道一般を悪いと決めつけるような論調がネットの一部に見られることには、私は違和感を抱く。

以下、被害者の実名報道に反対する主張を推測混じりで2,3列挙し、それに疑問を付する形式で、違和感の理由を述べたい。

(主張1)そもそも実名報道には、報道としての公的価値がない

(疑問1-1)価値があるとかないとか誰が決めるのか。

もし誰もが価値がないと考えるなら、弊害も生じることは明らかである以上、とっくにマスコミは実名報道をしなくなっているはずではないか。

現にマスコミが報じているという事実こそが、被害者の実名が国民の関心事であることを示しているのではないか。

国民の関心事であることを認めつつ「興味本位の情報消費者の関心に応える必要はない」と考えるなら、それは独善ではないか。

(疑問1-2)報道の結果は後世まで残るわけだが、後の資料的価値についてはどう考えているのか。

(疑問1-3)実名報道に価値がないならば、犯罪被疑者・被告人についても実名報道は不可と考えるべきではないか(弊害が大きいのは同じ)。しかし実際のところ、被疑者・被告人の実名報道は当然としつつ被害者の実名報道には反対している人が多いのではないか。

(主張2)実名報道に全く価値がないわけではないが、匿名の場合に比べ、メディアスクラムや各方面からの連絡を誘発する等、被害者側の平穏を乱す弊害が大きい

(疑問2)そうだとしても実名報道を一律にやめるべきであるとする理由にはならないのではないか。報道機関が被害者側の心情に配慮し、過度の取材は差し控えるとか、被害者側から匿名の要望があった場合にその要望を考慮に入れて実名匿名を決する等の運用で解決すべき問題ではないか。

(主張3)実名報道が常に悪いとは言わないが、被害者又は遺族の同意を得るべきである

(疑問3)報道価値のある(と報道者が考える)事実のうち、被害者の実名にかかる部分について、報道者自身の判断によっては報道できず被害者又は遺族の処分に委ねられるべきだと考える理由は何か。説得的な理由などないのではないか。

また、技術的問題として、被害者死亡の場合は誰が処分権者になるのか。

複数の処分権者がいる場合、全員の同意が必要なのか。それはあまりに非現実的な話ではないか。

まとまりがないが、こんなところか。

で、ここから先は憶測の部類なのだが、自らの名を公に晒されることを一種の「罰」と考えるような意識が、かなり多くの人にあるのではないか、そのことが、ここまで議論を紛糾させた原因の一つではないか、という気もしている(そのことの善し悪しは措くとして)。

そう考えると、被疑者・被告人については常に実名報道せよと叫ぶ一方で、被害者については一切実名報道するなと叫ぶような人の存在も説明がつくような気がするし。

ちなみに、私のいる弁護士業界には、被疑者・被告人の実名報道にも反対する人が多い。

私も実名報道の弊害の大きさ(被害者の実名報道よりも遥かに大きいと私は思っている)を考えると、その見解に与したいのは山々なのだが、上記疑問1-1及び1-2と同じような理由で、なかなかすっきりそう言い切れない、という次第である。

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